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社畜ゲートウェイ

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渋沢栄一、スパイになる

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一橋家に仕官した渋沢栄一は、平岡円四郎の命令で大阪に出張することになります。表向きは、薩摩藩の築城法の専門家である折田要蔵の内弟子として住み込み、築城技術を身に付けることでしたが、実は密偵(現代で言えばスパイ)も兼ねていました。

摂海防禦問題

渋沢栄一が折田要蔵のスパイとなる話の前に、少しだけ当時の社会情勢をお話します。嘉永7年(1854年)に日米和親条約を締結して日本が開国して以降、日本は外国の脅威を問題視していました。長州藩と四ヶ国連合艦隊*1が衝突した下関戦争もあったことから「防備もちゃんとしていない状況は、ちょっと危ないんじゃないか?」という議論が出てきます。その一つが、摂海防禦です。

摂海防禦というのは、もし大阪を開港してから外国との戦争になった時に、大坂湾周辺から侵攻されることを想定し、大坂の防御を固めようということです。摂海防禦指揮という役職が置かれ、一橋慶喜(徳川慶喜)が任命されました。

 

尚、薩摩藩主・島津久光は早くから折田要蔵に命じて防備の設計を行わせ、薩摩藩が主導で行おうとします。幕府は薩摩藩が勝手に行動したことに疑問を呈したので、幕府は折田要蔵を二条城に呼び寄せ、慶喜や幕府高官の前で折田の説明を聞きます。すると、折田は言葉巧みに演説*2して、慶喜や幕府高官を納得させます。その結果、折田を摂海防禦御台場築造掛という役職に任命し、百人扶持の給料*3を与えました。

 

スパイとして折田を調べる栄一

平岡の懸念

「折田はさぞ優秀だろう」と言うのが一般的な見解でした。一橋家に仕える平岡は、優秀な人材を一橋家に引き抜きたいと考えます。しかし、本当に優秀かどうかは実際に会って話すだけでなく、実際の仕事ぶりを見る必要があると平岡は考えます。平岡の心情を現代で例えると、「話上手で面接やプレゼンではとても優秀に見える人が、実際に仕事をした時に優秀な成績を出せるか心配である」と言ったところでしょう。そこで、平岡は栄一に、同時に薩摩藩の動向も見てくると同時に、「内弟子して潜り込んで、折田の仕事ぶりを見て来てくれ」と頼みます。スパイの様なものです。

ちなみに、折田の友人に小田井蔵太という者がいて、川村恵十郎(平岡に栄一を紹介した人物)と仲が良かったので、折田の内弟子にした貰うように小田井蔵太に頼みました。また、一橋家から折田に「栄一は一橋家の家来なので、どうか教えてやってくれ」と要請があったので、首尾よく栄一は折田の内弟子になることが出来ました。

 

栄一のスパイ活動

内弟子という名目でスパイとして入った栄一は、折田の仕事ぶりを観察します。一応、栄一は内弟子として入ったので稽古をしますが、「下絵図を作れ」「この書類を書き写せ」ということばかりをさせられます。栄一は、書類の書き写しは出来ましたが、図を描いたことが無かったため、墨に濃淡が出来たり、線が曲がったりしたため、思うよう出来ず、いつも叱られていました。それでも、内弟子(スパイ)として信用を得るため、何とか頑張って、粗末ながら図を描くことが出来るようになっていました。

 

稽古だけでなく、スパイとしても活動していました。というのも、折田のまわりにいる従者は薩摩出身で薩摩言葉(鹿児島弁)しか話せず、大坂や江戸の人をはじめ、多くの地方の人と言葉が通じませんでした*4。栄一はというと、江戸言葉はもちろん、薩摩言葉も大体は理解出来ていたので、使者としての仕事を折田から命じられます。「大坂町奉行や勘定奉行まで行って打ち合わせをして来い」「御目附*5に行ってこれこれを引き合って来い」など、色々な使者としての仕事を言いつけられていたのです。いわゆる、通訳みたいな役目で、折田としては栄一は非常に使い勝手のいい使者だったのでしょう。栄一もまじめに働いていたので、まわりから信用を得ていました。

そんなことをしている内に1ヶ月が経ち、薩摩の内情や折田の仕事ぶりも観察出来たことを平岡に伝えると、栄一を京に呼び戻そうということになって、内弟子(とスパイ)生活も終わりを告げて京に戻りました。

 

折田の評価

栄一は京に戻って平岡に折田の件を報告します。折田に対する評価は、

  • 口は上手いが、専門的な知識がそんなにない
  • 西郷隆盛と文通をする時もあるが、薩摩藩の中で折田の言説は重要視されていない

ということでした。他にも色々とありましたが、「それほど実力があるわけではないため、引き抜く必要が無い」という結論に至りました。

もともと、折田要蔵は薩摩藩の中では、それほど身分が高くはありませんでした。幕府の御用掛になると、折田は大坂の土佐堀にある旅館・松屋を宿としており、そこには、紫色の幔幕を張り巡らし、看板に太く大きな字で「摂海防禦御台場築造掛 折田要蔵」と書かせていましたので、とても目立っていました。身分の低さがコンプレックスだったのか、自分の肩書が立派になると、それを周囲にアピールしていた様です。現代で言えば、「口だけは達者で、実力と肩書が見合っていない」という、日本の無能上司の典型の様な人間と言えるでしょう。

 

編集後記

スパイとして折田要蔵の内弟子になって潜り込んだ渋沢栄一は、コツコツと仕事をやっていたこともあって、無事にスパイ活動を成功させました。その人が優秀な人材かどうか見抜く力というものは、このころの栄一は既に持っていたと言えるでしょう。

ちなみに、折田はその後の人生ほとんどが湊川神社に関わることになります。1873年には湊川神社の初代宮司となっています。

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参考資料

第1巻(DK010019k)本文|デジタル版『渋沢栄一伝記資料』|渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団

『父 渋沢栄一』(実業之日本社文庫)

『渋沢栄一』(人物叢書)

2021年放送の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一。当サイトでは、放送されるエピソードの他、放送されないエピソードも執筆しています!是非、大河ドラマと合わせてお楽しみください!

*1:下関戦争は2度勃発。1863年はアメリカ・フランス、1864年にはイギリス・フランス・オランダ・アメリカが参戦。

*2:大坂湾の防備だけでなく、全国の沿岸防備まで語っている。

*3:年収で約500俵、石高で500石相当。

*4:同じ日本の中でも、当時は薩摩言葉は通じにくかった。

*5:幕府の役職の一つ。旗本・御家人などの監視役。大坂には大坂目附という役職があった。