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渋沢喜作ってどんな人?

大河ドラマ『青天を衝け』に登場する機会が多い渋沢喜作。青年時代の喜作は栄一と共に行動することが多く、栄一の相棒というポジションでもあります。高良健吾さんが演じていることもあり、とても実直で爽やかなイメージがあります。今回は、そんな渋沢喜作を簡単に紹介します。

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栄一と喜作の関係

栄一と喜作は従兄弟の関係になります。栄一は渋沢宗家の中の家、喜作は新屋敷の出身です。栄一の父・市郎右衛門と喜作の父・文左衛門は、東の家の当主・二代目渋沢宗助の子供です。喜作は栄一より2つ年上で、幼いころから一緒に遊び、そして尾高惇忠(新五郎)から勉強を教えてもらっていました。青年になってからは二人は村の有名人であり、もめごとが起きた時でも栄一と喜作が出て来ると、話がまとまると言うくらい、二人のコンビは影響力がありました。

栄一と喜作は考え方や物事の進め方が違い、栄一は一歩ずつ進むタイプでしたが、喜作は一段飛ばしで進むタイプ、また、栄一は思慮深いですが、喜作はコレと決めると突き進みます。対照的な二人でしたが、小さい頃からお互いのことをよくわかっていたので、大人になっても共に行動することが多かったのです。

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幕末までの喜作

幕末までの喜作の略歴を簡単に説明します。

  • 1863年10月 挙兵計画の主要メンバーに加わるも中止、栄一と京に逃げる。
  • 1864年2月 栄一と共に一橋家に仕える。
  • 1866年 陸軍附調役になる。
  • 1867年 徳川慶喜の奥右筆になる。
  • 1868年 彰義隊を結成、初代頭取。4月に脱退し、5月に振武軍を結成するも、官軍に敗れる。榎本武揚の艦隊に合流。
  • 1868年8月 新たに彰義隊を結成、頭取になる。蝦夷地に行き、函館戦争に参加。
  • 1868年11月 彰義隊分裂。小彰義隊となり、頭取に。
  • 1869年5月 旧幕府軍から脱走。6月に官軍に投降し、投獄。

幕末までの喜作は栄一と行動を共にしています。栄一と喜作は順調に出世し、栄一は経理方面に進み、喜作は軍事方面に進みます。1867年に栄一がパリ万博に出席する徳川昭武(徳川慶喜の弟)に随行してフランスに渡る一方、喜作は慶喜の奥右筆(秘書みたいなポジション)に就きます。二人とも、投獄寸前から大出世です。

喜作は栄一とのコンビで順調に出世しますが、二人が職務上で別れてから、喜作は少し不運に見舞われます。幕府軍として戊辰戦争を戦い抜きますが、最後は新政府軍に投降して投獄されています。栄一はフランスに渡航していましたが、もし日本に居たら喜作と運命を共にしていたかもしれません。

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明治以降の喜作

大蔵省に仕える

戊辰戦争の末に投獄された喜作は、戊辰戦争後から3年間、陸軍の檻倉(牢屋)で過ごし、1872年に赦免されます。その時、栄一はフランスから日本に帰ってきて、大蔵省に勤めていたので栄一が親類代表として喜作を迎えに行きました。

出所してからの喜作は、栄一のコネで大蔵省の勧業課に入ります。栄一は、自分がフランス留学で海外の知識を存分に吸収したこともあり、喜作にも海外留学をすすめます。喜作も海外に興味があったので、養蚕業の調査の名目でイタリアに留学します(実際のところは欧州情勢の視察)。ですが、喜作がイタリアから帰ってみると、栄一は既に大蔵省を辞めて民間で活動していました。栄一が少々勝手な気もしますが、喜作も栄一のコネで大蔵省に入ったので、知り合いもいないところで仕事をしても仕方ないということで、結局、喜作も大蔵省を辞めます。

民間に転じる

栄一は既に銀行業に従事することを決めていました。当時の栄一は第一国立銀行の頭取でした。栄一は、「(私は希望して銀行業に就いているのであって、無理に)喜作が同じことをする必要はない」と考えたので、これまた栄一のコネで喜作は小野組*1に入ります。しかし、喜作が小野組に入った翌年に、小野組は破綻します。

それから喜作は「独立して自分で経営したい」と考えるようになります。そこで栄一は「蚕糸とお米を扱ってみたらどうかね。私も少しばかり協力しよう」と言うので、喜作は、深川で米問屋、横浜で生糸問屋をスタートします。

米相場で失敗

最初は栄一と一緒にコツコツと事業を展開していました。上信越や奥羽地方から東京にお米を引っ張ってきたり、委託販売を行ったり、荷為替決済や運送保険といった制度を作ることも行っていました。東京商法会議所(東京商工会議所の前身)の設立発起人にも名を連ね、経営者として上々な出だしです。

が、残念なことに、ここで失敗します。元々、投機の様な一発逆転が好きな喜作は米相場に手を出します。そして、見事に損失を被ります。栄一が損失を引き受けて諸々を処理し、喜作は米相場に手を出さないと誓います。

ドル相場で失敗、そして栄一からの勧告

さて、米相場の件が落ち着いてからは、お米の委托販売と生糸問屋でコツコツとやり直していましたが、あろうことか、今度はドル相場に手を出します。そして見事に失敗します。しかも、銀行から事業のために借りていたお金は、銀を抵当にして借りていたはずでした。「はずでした」と言うからにはちょっとワケありで、第一国立銀行の横浜支店長がぬるかったのか、外国商館に喜作の銀があると思い込んでいたのですが、実は銀はすでに喜作の手から離れていました。

そうなると、今度は第一国立銀行が「喜作を潰してもいいから、取れるものは取れるだけ取る」と言って回収に動きます。しかし、栄一と喜作は幼いころから生死を共にした仲であり、せっかく喜作が立ち上げた商売を潰すことは惜しいということで、ここでもまた、栄一が損失を引き受けます。ただし、喜作が息子・作太郎に家業の全てを譲り、今後、家業に一切口出ししないということを条件に。

家業引退の後

まだ終わりません。栄一は喜作にチャンスを与えます。栄一は喜作にいくつかの会社の設立に参加させたり、重役に就かせたりします。しかしながら、北海道製麻株式会社や十勝開墾合資会社でも大きな損失を出しては、栄一が肩代りするということが何度かありました。

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編集後記

幕末までは順調に出世した喜作ですが、明治以降、喜作自身が経営すると、どこかで失敗することが多々ありました。栄一が上手にコントロールしていれば喜作は上手に動くのですが、ちょっと目を離したすきに…というパターンで、損失を出していました。栄一は起業に際しては出資者を募り、実務については縁故は関係なく、有能な人材を登用して事業を上手く回していましたが、喜作に至っては親類であったからか、ちょっと甘かったのかもしれません。

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参考資料

第14巻(DK140052k)本文|デジタル版『渋沢栄一伝記資料』|渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団

デジタル版「実験論語処世談」(22) / 渋沢栄一 | デジタル版「実験論語処世談」 / 渋沢栄一 | 公益財団法人渋沢栄一記念財団

『父 渋沢栄一』(実業之日本社文庫)

渋沢栄一――社会企業家の先駆者 (岩波新書)

2021年放送の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一。当サイトでは、放送されるエピソードの他、放送されないエピソードも執筆しています!是非、大河ドラマと合わせてお楽しみください!

*1:明治の豪商。第一国立銀行にも出資しているため、栄一とは繋がりがあった。