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織田四天王とは?

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織田四天王とは、織田政権での実力者4人のことを指す。提唱された時期は不明だが、いつからか何となく言われるようになった。

 

織田四天王

織田四天王とは、織田信長の時代、後に織田政権と称される織田家の実力者4人のことを指します。

  • 柴田勝家(1522-1583)
  • 丹羽長秀(1535-1585)
  • 滝川一益(1525-1586)
  • 明智光秀(1528-1582)

戦国時代の当時に、織田四天王と称されたことは無く、後世になってから、歴史オタクが勝手に決めたものだと考えられています。

 

柴田勝家

通称・権六。

信長の父・信秀の頃から織田家に仕え、織田四天王筆頭にして、織田家最古参…と言われていますが、尾張時代に信長の弟・信勝が挙兵した際、林秀貞と共に信勝側についています。

佐久間盛信が織田家最古参にして筆頭家老でしたが、1580年に盛信が追放された後、繰り上がり人事で筆頭家老になったことから、信長が実力による人事評価を行っていたのか疑わしいということも考えられます。

勝家は本能寺の変後、羽柴秀吉と争いますが、地理的にも国力的にも劣勢を強いられており、秀吉の計略や前田利家の寝返りなどもあってボコボコにされ、北ノ庄城で信長の妹・お市と共に自刃しました。

 

丹羽長秀

通称、米の五郎左。

1573年、朝倉氏をボコボコにした功績から若狭一国を与えられ、織田家で最初の国持大名となります。織田家での序列は柴田勝家の次席。

本能寺の変が発生した直後、神戸信孝(織田信孝、信長の三男)の四国方面軍の副将として羽柴秀吉に協力して、山崎の戦いで明智光秀を撃破。

清州会議や柴田勝家討伐で秀吉に力を貸し、若狭・越前・加賀の123万石を与えられ、大大名にまで出世しましたが、秀吉の天下統一事業を見ることなく、1585年に死去。

 

滝川一益

出自がよくわからない人。甲賀出身かもしれないからと言って忍者だったかもしれないとまで言われていますが、どこで生まれたかも、どこで育ったかも不明です。

伊勢攻略、石山合戦、長島一向一揆、朝倉討伐、長篠の戦い、越前一向一揆など、畿内のあちこちの戦いに参戦していることから、信長の信頼が厚かったのか、酷使されているのかわかりませんが、着々と戦果を上げて出世していき、気が付いたら宿老格にまで

上り詰めていました。

所領は伊勢にありましたが、武田家攻略後、いきなり関東の上野一国を与えられ、北条家との窓口を担います(関東管領とも称されたそうな)。

しかし、本能寺の変が発生し、状況は一変。北条家から攻められるわ、清洲会議には参加できないわ、柴田勝家についたばっかりに秀吉にボコボコにされるわで、信長亡き後は散々な目に合います。

そして、秀吉に所領を没収されるも、小牧・長久手の戦いの際に復帰を許され、佐竹氏など東国大名との外交を担っています。1586年に年齢不詳のまま死去。

 

明智光秀

通称・十兵衛、キンカ頭。

出自不明の新参者にも関わらず、その実力を認められ、織田家で最初の城持ち大名となり、畿内方面軍の軍団長を任されるまで出世します。与力を含めた石高は250万石とも言われています。

しかし、信長から度重なるパワハラを受けたりしたため、日々のストレスがマッハになって本能寺の変を起こします。しかし、本能寺の変後、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、歴史の表舞台から去りました。

 

秀吉は織田四天王に入らない?

さて、後に天下統一を達成する羽柴秀吉が、織田四天王に入ってない理由は不明です。

推測ですが、歴史オタク的には成り上がりとされている秀吉を入れたくないという謎のこだわりがあるのだと考えられます。

城持ち大名になった時期も早く、中国方面軍の軍団長にも任命されていたので、実力的には四天王に選ばれてもいいはずなのですが、歴史オタクの好みによって外されたのかもしれませんし、そもそも四天王は後世の歴史オタクが勝手に決めたものなので、正直、織田四天王という称号に意味があるのかわかりません。