阪急電鉄の生みの親である小林一三。独創的な経営手法は、大手私鉄のお手本となり、今日の鉄道事業を中心とした大手私鉄の経営に大きな影響を与えています。小林一三は阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道の経営を引き受けて、私鉄の経営モデルを築き上げていくのですが、それは、小林一三の空想から始まったものでした。
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小林一三、無職になる
箕面有馬電気軌道の経営を引き受ける前の小林一三を少しだけ辿ります。
小林一三は三井銀行*1に勤めていましたが、三井物産の重役・飯田義一と北浜銀行の頭取・岩下清周*2から、「証券会社を設立するから、その支配人になって欲しい。」と言われます。銀行員として有価証券の知識があり、日ごろからの周囲の信頼があってのご指名でした。当時の一三は、三井銀行の経営方針に不満を持っていたこともあり、証券会社の支配人になる話を承諾します。
新しく設立する証券会社は、「北浜の怪傑」とも呼ばれた島徳蔵*3が経営していた株式仲買会社・島徳株式店を北浜銀行が買収し、公債・社債・有価証券を専門とした証券会社という構想でした。しかし、日露戦争後の熱狂で上昇していた株式市場に反動暴落が襲い、北浜銀行による島徳株式店の買収は消え、証券会社設立の話も無くなってしまいます。つまり、内定をもらっていたにも関わらず、不況のあおりで一三の就職先が無くなってしまったのです。
就職先が無くなってしまった一三に声をかけたのは、またしても飯田義一でした。当時、飯田義一は阪鶴鉄道*4の取締役でしたが、飯田義一は取締役を辞職する予定で、後任には当時の監査役・野田卯太郎が取締役に就任するため、監査役が空席になります。そこで、飯田義一は「監査役には小林で」と決めたので、一三には「決まったから」と言って監査役を用意しました。
小林一三に証券会社の支配人ポストとしてオファーしたにも関わらず、その証券会社の設立に至らないまま、小林一三を無職にしてしまったこともあり、阪鶴鉄道の大株主であった三井物産経由で小林一三の就職先を用意したことになります。
当時の阪鶴鉄道は国有化が決まっていたので、阪鶴鉄道の経営陣が、「大阪梅田~箕面~宝塚」の路線を計画していました。まさに箕面有馬電気軌道が生まれようとしていた時に、小林一三は阪鶴鉄道の監査役に就任し、国有化される阪鶴鉄道の清算事務処理を請け負うことになります。
とんでもない計画
歩いて考えた空想
阪鶴鉄道の国有化と並行に進んでいた箕面有馬電気軌道の発起人会は、池田駅*5の近くにある阪鶴鉄道本社で開催されていました。その会議に出席する際に、一三は大阪から徒歩で行ったそうです。単なる気分転換や健康志向によるものではなく、箕面有馬電気軌道の計画路線を歩き、箕面有馬電気軌道がどうやったら事業として成立するかを空想します。どういう空想かと言うと、「計画路線の沿線には何も無いので、沿線に住宅を作れば、利用者を確保出来るのでは無いか」という空想です。そして、その空想を計画として岩下清周に相談します。
空想から出て来た計画
一三が空想して考えた計画は、簡単に言うと、
- 住宅地として理想的な土地を買う(何もないから安い)
- 住宅を建てて売る
- 大阪(梅田)までの電車があれば、利便性があるので住宅が売れる&電車も乗ってもらえる
という計画でした。現代の感覚で言うと、「まあ妥当なところじゃないかな」と思うかもしれませんが、当時はそんなことを考えた人はいませんでした。
そもそも、当時の鉄道事業は都市間輸送が前提で設立されていたので、田んぼの真ん中を走るような箕面有馬電気軌道の計画は、前代未聞どころか無謀だったのです。路線建設費などは阪鶴鉄道が調査しているので、設立初期の費用は信用できるとしても、田んぼの真ん中を走る電車に対して、実際にどれくらいの乗客が利用し、どれくらいの利益を生み出すのかというのは、捕らぬ狸の皮算用と同じなので、なかなか事業設立の資金が集まりませんでした。しかし、一三としては、鉄道事業が開業する前から住宅事業を副業として用意しておくことで、株主を安心させて、事業立ち上げの資金を募ろうということを目論んだのです。
全権を委任せよ!
さて、岩下清周に相談して、株式の引受人を探してもらいつつ、今度は経営陣に対してアクションを起こします。当時の箕面有馬電気軌道の発起人、つまり経営陣たちは、設立の発起に際して株主を集めていましたが、日露戦争後の熱狂から株式市場は暴落していたため、株式の割り当て問題にどう対処するかという議論が長引き、肝心の事業計画も遅々として進みませんでした。
そこで、一三は発起人たちに、
「箕面有馬電気軌道の経営を引き受けます。成功する見込みがあるので、みなさんの名前だけ貸して頂いて、経営の全権を任せて欲しい。」
と言いましたが、阪鶴鉄道の社長であり、箕面有馬電気軌道の発起人会のトップであった田艇吉(でんていきち)は、
「私はトップの立場を手放す気は無い」
と言います。確かに、三井物産の重役である飯田義一の推薦で監査役になった一三は、まだ日も浅く、そもそも経営の実績なんてものはありませんでしたから、賛成を得るのは難しいでしょう。
しかし一三は、
「皆さんで相談して物事を決めて進めた結果、ビジネスチャンスを失い、今の苦しい状態に至っています。このままでは、また同じことの繰り返しで失敗します。どうか私に任せて頂きたい。」
とキッパリと言います。一三の指摘は正論なのですが、ここまでくるとゴリ押しです。すると、それに押されたのか、田艇吉は「私たちはどうなるのか」「もし失敗したらお金の責任は誰が取るのだ」と自分の身を案じる質問をします。一三は、
- お金の責任は自分が取る
- 解散に至った場合は、株主と発起人たちに損はさせない
と言います。そのことを聞いて、田艇吉をはじめとした発起人たちは、小林一三と箕面有馬電気軌道の専務・会社発起人・創立委員として、全権委任の契約を結びます。こうして、小林一三は箕面有馬電気軌道の経営権を握ります。その後、株式の引受人に奔走し、「もっとも有望なる電車」という有名なパンフレットのアイデアもあり、1907年10月19日に箕面有馬電気軌道が設立、1910年3月10日に現在の阪急宝塚線にあたる梅田~宝塚間が開業しました。開業と同じ年に、住宅ローンの先駆けとなった、月賦方式での住宅分譲がスタートし、無事に沿線に住民が増えていったので、鉄道経営も上々となりました。
編集後記
もし、小林一三が池田までの道のりを歩いて空想をしなければ、現在の阪急電鉄だけでなく、大手私鉄の経営は全く違うものになっていたのかもしれませんね。また、空想を現実的な計画に昇華させるのも凄いのですが、全責任を負ってまで経営権を委譲させるという大胆な立ち回りも小林一三の魅力の一つかもしれません。
有名な「最も有望なる電車」の話は、また別の機会に。
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